無題
一生懸命生きているけど、それだけじゃあどうしようもないことだらけだね。
それでも一生懸命生きていくほかないし、なんだかなあ。
こんなに毎日一生懸命で、どこに行き着くんだろう。
折り合いをつけて生きてゆく。
みんなはどうやって折り合いをつけてるのかなあ。
無題
鬱の大波がどうやら来ている!
こわい!
すごくお久しぶりだ〜!
私はいつもいつも人と比べては苦しんでしまうね。
私は私、人は人。
何度も何度もそう思おうとしているけど、いつもだめになるんだよなあ。
私は私。
どこか私のこと誰も知らない遠いところに行きたい。
無題
落ち込んでおります。
お久しぶりの堂々めぐり真っ暗思考。
私は本当にひと付き合いというものが下手くそで。
嫌になる嫌になる。
ほんとーうに嫌になる!
もううんざり!
大体、ひとりで過ごす時間が好きなのだから、わざわざ人と過ごそうとしなくたっていいじゃんね!
分かっているのに、私はいつも人が恋しい。
誰かと一緒にいたいわけじゃなくて、誰かに大切にされたくて、私のことを考えていてほしい。
分かってほしいとは思わないけれど、知ってほしい。知ろうとしてほしい。
なーんにも言わずに、ただ見守っていてほしい。
私は自分のことが大嫌いで、どう頑張っても自分を大切にすることが出来なくて。
自分では出来ないぶんを、誰かに補って貰いたいんだろうなあ。
人付き合いって、与えたぶんだけ返ってくるものだと思うんだけど、私は人になーんにも与えられない。
私はいつもほしいばっかり!くそやろう!
自分のことで精一杯で、自分のことしか考えられなくて。
人のことを大切に思うほどの余裕が、私にはない。
正直、誰のことも全然好きじゃないし、どうでもいい。
昔からの友達のことも、たくさん遊ぶ知り合いも、恋人だった人たちも、なんなら家族ですら、本当のところ、好きだとか大切だとか分からない。
ぜーんぜん分かんない!
私の人付き合いはいつも損得勘定。
そんなんだからいつも一人ぼっちだし、親しい人だってできるわけないし。
苦しい、苦しいよ〜
誰かを心から大切だと思ってみたい。
誰かに心から大切だと思ってもらいたい。
すごく寂しい。
無題
「弱虫は幸福さえおそれるものです」
私の好きな作家がそう言った。
私のことだ〜〜!
こんなにもだめだめな私が、幸せになっていいはずがない。幸せを望むなんて、恥ずかしい。手に入ってしまった幸せが、なくなってしまうことが怖い。
私は、幸せが怖い。
そもそも、幸せってなんだろう。
人の数だけ、幸せのかたちがあるはず。
私はずっと、自分の機嫌を取ることが下手だったなあと思う。
21年間生きてきて、やっと、少しづつ、少しづつ、自分にとって心地がいいこと、苦しいことの境目が見えるようになってきたように思う。
心を壊しながら、21年もかけて見つけた、私にとっての心地よさ。
心が震えるような嬉しいことだとか、楽しい瞬間だとか、そういう大きな大きな心の動きって、本当に尊いものだと思う。
私はずっと、幸せってそういうものだと思ってた。
だけど、もしかしたら、今の私にとっての幸せは、心地がいいってことなんじゃないかなあ。
ゆっくり、静かで、
大きくなくたっていいから、伸びやかなもの。
波の立たない、風通しの良い、穏やかなもの。
そういうもの。
私にとっての幸せが、どうやら心地いいと同義なんじゃないかと思えるようになってから、少しだけ、幸せが怖いものじゃなくなった気がする。少しだけ近くなった気がする。
心地よく暮らしたい、生きてゆきたい。
そう思うことくらい、願うことくらい、
だめだめな私でもいいんじゃないかなあ。
心地よく暮らすこと。
心地よく生きること。
幸せになることは、怖いことじゃない。
幸せになりたいと願うことは、恥ずかしいことじゃない。
それでも、幸せが逃げていってしまうことは、やっぱり怖い。
だけど、心地のいい暮らし、心地のいい生き方、そんなふうに幸せのかたちの指針があれば、いつだって取り戻せる。(よね?)
私は苦しい時間をやり過ごすことは得意だから。
人よりも時間がかかってしまうことは、慣れっこだから。
もしも幸せが逃げていっても、また、ゆっくりゆっくり取り戻せるはず。(だよね??)
私は時間をかけて、私自身を大切に出来るようになってきた。
幸せのかたちは、時の流れと一緒に変わってゆくかもしれないけれど。
21歳の今の私が一生懸命考えたこの幸せを、いつまでも忘れずにいたい。
無題
私は、自分の選択にいつも自信がない。
好きなことは何?
楽しいと思えることはある?
大切にしたいことは?
今、大切にしていることはある?
これから、やりたいことは何?
これから、大切にしたいことは?
私は、自分にも、自分の選択にも自信がない。
自分が紡ぎ出す言葉も、考え方も、なんなら、心の動きですらも、今までの人生の中で、見聞きしたものを取捨選択して、切り貼りしているだけのように思う。
読んだ本、観た映画、出会った人の言葉、そんなふうに、私を取り囲んでいるもので、私は構築されてゆく。
ここに、ほんとうの私、とか、確固たる私、みたいなものってあるのかな。
他人の言葉を切り貼りして、まるで自分の言葉のように紡いでる。
そこに、"ほんとうの私"はいるのかなあ。
たくさんの見聞から、膨大な数の言葉や知識を得る。
情報を取捨選択して、"自分"の言葉や考え方を構築する。
結局、"ほんとうの私"とか"自分"なんてものは、ないんじゃないかと思う。
出会うもの、出会う人、選ぶもの、選ぶ人、
そんな中から、確率論で構築されてゆく私。
ほんとうの私。
みんなはどうやって、ほんとうの私を信じてる?
ほんとうの私としての人生を歩んでる?
自分の気持ちだって、結局は、外の世界の副産物。
そんな私が"自分"の考え方をもって、"ほんとうの私"のやりことを見つけて、そして前へ前へ進んでゆける、なんて思えない。
ううう〜。
疲れちゃう。
無題
最近、たくさんの新しく嬉しい出会いに恵まれている。
これは、本当に本当に、有難いことで。
たくさんの人に出会い、たくさんの想いに触れる。
時間を自由に使える私には、絶好の機会だと思う。
だけど、私は、なぜか、少しずつ少しずつ、私の大切な何かをすり減らしているような気がしていて。
家に帰って、もう一歩も動けないような、そんな気持ちになる日がある。
なぜなのか、一生懸命考えた。
私は、今のなんとか人並みの生活を手に入れるために、本当に、苦しい苦しい時間を過ごしてきたし、今も過ごしている。
だけども、私がみんなと同じラインに立つための、普通の生活を手に入れるために頑張った時間、みんなはどんどん前に進んでいて。
みんなは、毎日、普通の生活を送っていて、その余力で何かに挑戦しているように思う。
想いを叶えようとするし、新しい物事に挑戦しようとする。
それなのに私は、普通の生活を送るために、全ての力を使ってる。
それならもっと頑張ればいい、それは分かっているだけど。
今の私にはまだ難しくて。
だけど、それも自分への言い訳だって分かっているし。
行き着く先はいつも、
私はなんでこんなにだめなんだろう。
自分と他人のギャップが苦しい。
本当は、ギャップなんかないのかもしれないし、苦しさだって言い訳なんだし、むむむ。
健康な心、健康な身体あっての、前進。挑戦。
私には到底手の届かないところで、みんながキラキラと輝いているように思ってしまう。
そんな考え方を持っているうちは、私に前進なんてない。
苦しいし、悲しい。
それに加えて、もう一つ。
最近、自分の熱い想いを仕事にしている人に出会う機会が多いからか、
自分も何かを成し遂げないといけない、人とは違う何かをしなければならない。仕事は絶対に楽しくないといけない。プライベートは充実していないといけない。他人とたくさん出会って触れ合って、熱い想いを持っていてこそ素晴らしい。
なんとなく、そんな気がして、すごく苦しい。
私は、何かすごいことをしていなくたって、仕事が楽しくなくたって、熱い想いなんて持っていなくなたって、別に良いと思っていて。
日々の生活をこなしてゆくこと。そんな毎日の中で、大切にしたいと思うものごとや、人に出会うこと。自分が胸を張って好きだ、楽しい、と思えることに時間を使うこと。
こういう些細な幸せだとか、喜びを大切にすること。
私は、本当はこういうことが大切なんだと思っていて。
だけど、私がこういう風に考えていることが、なんとなく、恥ずかしいように思ってしまって。
仕事をバリバリこなして、プライベートでも自分の熱い想いを発信して。
それって本当にすごい。
だけど、私はそうなりたい訳じゃない。
私が大切にしたいのは、そうじゃない。
なのになんで、恥ずかしいと思ってしまうんだろう、焦ってしまうんだろう。
私は、私自身の好きなもの、大切なことに胸を張れない。
私は私。人は人。
それぞれに大切にすべきことがある。
それぞれに頑張るべきことがある。
それぞれに頑張っていることがある。
それぞれに素敵なところがある。
私にも、頑張れていることがあるのかなあ。
素敵なところがあるのかなあ。
分からない。
いつもいつも人と比べてもやもやしちゃうな。
私は私。
大切なものはみんな違う。
なんだかすごく疲れた〜!
一人の時間がすごく足りない。
ちょっとゆっくりしようね。
ねむたい〜!おやすみなさい!
21歳、これから
17歳で摂食障害を患って、4年。
私は今、21歳を生きている。
もういつ止まってもおかしくない心臓のために、心電図を付けて生活したあの毎日も。
筋肉量が低下して、自力で立ち上がることも、起き上がることも出来なかったあの毎日も。
昼夜も関係なしに、借金までして、途方も無い量の食べ物を食べて食べて、涙も鼻水も垂れ流しで、喉から血を流しながら、吐いてトイレに流す、あの地獄の毎日も。
死のうとする私を、泣きながら抱きかかえる母と祖母のことも。
ものすごく長かったようにも、あっという間だったようにも思う。
私は今、21歳。
摂食障害を抱えたまま、生きている。
何度も何度も死にかけて、それでも今、私は生きている。
もうどうにもならないような気がした、あの地獄みたいな永遠みたいな日々から抜け出して、今のこのぬるい生活を手に入れるために、私は血のにじむような毎日を過ごしてきた。
どんな病気や悩みも同じだと思うのだけど、苦しみは当事者にしか分からないものなんだなと思う。
どんなに一生懸命説明したって、あの地獄は私と私の家族だけのものだし。
正直なところ、どんなに親しい人にだって説明なんてしたくないし。分かったようなこと言われたくないし。
だから、摂食障害を患っていること、どんなに私が必死に生きてきたのか、生きているのか、どんなに毎日が苦しいのか、どんなに消えて無くなってしまいたいのか、私にとって日常生活を送ることがどれほど難しいのか、そんなことはどうせ分かってもらえるわけが無いという、諦めの気持ちがいつもある。
健康だった頃の私にとって、今の私はものすごく不甲斐ない生活を送っていて。
今の私の生活全てが、本当に恥ずかしくて。
だから、自分の現状への言い訳として"摂食障害”を使いたい、そのために病気の苦しさを知って欲しいという気持ちも、これもまたいつもある。
だから、死んでしまいたいくらい大嫌いな自分の現状に、摂食障害を言い訳として使うために。そうやって、なんとか誤魔化して、生きてゆくために。
苦しい苦しい4年間を、古くて遠い記憶にしてしまわないうちに、ここを見れば私の苦しい毎日を知ってもらえるのかもって場所を作るために、文字に起こしてみようかなあと思った。
言い訳に病気を使うことは、本当に格好悪くて、本当にずるいって分かっているんだけど。
それだけはしたくないと思っていたのだけど。
だけど私は、そうまでしても、生きてゆこうと思えるようになった自分自身に驚いていて。
何度も何度も死のうとして、それでも死ねなかった私が、自分から生きるための行動を起こす。
そんな日が来たことが、本当に嬉しくて。
誰も読んでいなくても、私自身のために、ゆっくり綴っていこうと思う。
私は少しずつ少しずつ、大丈夫になってゆく。